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2011/2/28

阪神・淡路大震災を振り返って


1995年1月17日に起こった大震災は、16年経って風化しつつある。そんな時、兵庫県保険医協会より私へ1本の電話があった。「このたび『被災地での生活と医療と看護』というタイトルで一冊の本(かもがわ出版)が出ました。その中に先生も載っていますので贈呈します」と。(私はP32、P42、P56に写っています。)
いきさつを紹介しましょう。震災直後、私の属する保団連は各県支部に号令をかけ、各県よりボランティアの医師、看護師が神戸に入った。愛媛県よりは私と現在の藤田会長が行った。あれは2月4日の夜。東予港より船に乗り、2月5日大阪南港着。そのまま西宮に入った。列車から見た西宮は壊滅状態。本部の置かれた広川内科クリニックへ集結した。広川先生の指揮の下、西宮の体育館や市街へ向かった。体育館はとても底冷えのする寒さで、トイレは水が出ず悲惨であった。市街では、1週間降圧剤を服用出来ていない老人の血圧測定を行った。血圧が180/90と高く、広川先生の所を紹介した。広川医師は災害発生から3日間は検死、応急処置、病院搬送の手配などで大変だったとおっしゃっていた。ボランティアの大切さは是非この本をお読みいただくとして、巻頭の「発刊へのメッセージ」を鮫島先生が書かれているので引用する。
「この大震災は大人災であることを後日知り、怒りが燃えさかった。①1974年に京都大学や大阪市立大学が、神戸市から委託を受けて「神戸と地震」という報告書を出したがその中で「六甲山近辺で都市直下型の大地震が発生する」とあるのに、当時の市の幹部は「もしこういうものが世の中に出てしまうと神戸空港はできなくなる」と没にしてしまった。②市に地震対策策定の際、専門家からの直下型震度6の可能性の指摘について「金がかかりすぎる」との理由で、震度5にレベルダウンさせた。③多数の人が消防車不足で焼死した。消防車の充足率が国全体で89%であったが、神戸市は59%、西宮市は48%でしかなかった。①~③をふまえて、これは明らかに人災であると結んでいる。
今後も「地域を基礎に!」との保団連の原点に立った実践活動をして行きたいと思っています。
写真のミーティングの中央、白服が広川先生。左下は西宮体育館です。
尚、NZ地震の一日も早い復興を祈っています。

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— posted by 越智邦明 at 03:53 pm  

2011/2/24

最近のゆうちゃん


2月19日(土)~20日(日)に一泊で遊びに来ていたゆうちゃんをじっくり観察した。
まずごはん。とに角、白米それものり巻きごはんしか食べない。ほかのおかずを食べないのが気がかりであるが、とても白米が好きなのである。「日本のお米」のCMに出れるのではないかと思うほどである。最後にお茶を飲んで「ごちそうさま」もするようになった。そして私が摘んできた菜の花。クンクンと臭いをかいで満足気である。以前書いたお風呂嫌いも影を潜め、楽しくお風呂に入るようになった。一人歩きといい、成長の証であろうか。
帰る前に病院に立ち寄って、何人かの患者さんと出会った。みんな「大きくなったね」とほめてくれた。
今回はパパも初登場です。
また次回期待して下さい。

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— posted by 越智邦明 at 12:30 pm  

2011/2/21

日本三景の謎


正月休みに宮元健次著「日本三景の謎」(祥伝社)を読んでみた。
風光明媚な絶景として古来より歌われてきた日本三景、即ち松島、天橋立、宮島は本当にその景観上の美しさだけで選ばれた地なのだろうか、という問いかけから始まる。
①松島は古代における蝦夷(えみし)征服の拠点として重視された。
②天橋立は渡来人の上陸地点であり、あの卑弥呼の出身地でもあり「天照大神」を祭る伊勢神宮の外宮がもとあった聖地であった。
③宮島は月を信仰する土地柄で、宮島に建つ厳島神社は、月の入りとその引力で起きる潮の干満を重視してきた。
日本三景が知られるようになったのは、江戸時代初期の儒学者林羅山の子、春斎が著書で「三処奇観」と規定したことに始まるという。だがその地位は不安定で、天橋立は昭和に至るまでたびたび切断計画が持ち上がっている。ではなぜこの3ヵ所が三景に選ばれたのか。
ここからが面白い。皆さん、日本地図を見て下さい。
日本三景はなんと地図上で一直線に並んでいるのです。特定の山や施設が一直線に並ぶ線を「レイライン」と呼び世界各国で発見されています。
さて三景のレイラインは北へ30度傾いている。興味深いのは、この直線が夏至の日の出の方向と冬至の日没の方位を結んだものであることです。すなわち天橋立から見て松島に、一年で最も勢いの強い夏至の日の出が昇り、また宮島に一年で最も勢いの弱い冬至の日が沈むことになる。
著者は軍事的重要性の観点から、この謎を解き明かそうとしている。是非、御一読下さい。
最後に天橋立のカニ、宮島のアナゴ、松島のカキを味わいながら、四季折々の日本三景を楽しんでいただきたいと結んでありました。
(追伸)
ゆうちゃん、お父さんの肩車が大変気に入っています。

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— posted by 越智邦明 at 03:06 pm  

2011/2/17

アンコウ


東医歯大で研修をしていた頃、お茶の水から神田方面に歩いていった所に、アンコウ鍋をやっている所があって、冬になるとよく先輩に連れていってもらった。松山では全く食べることがないが「アンコウ」がふと頭をよぎり調べてみた。
西のフグ、東のアンコウと並び称される高級魚である。アンコウは水深100~300mの砂泥底に生息する深海魚で、トロール網で他の魚と一緒に水揚げされる。漁獲高の日本一は山口県下関市だが、茨城県を境に「北のアンコウ」「南のアンコウ」と分けられ、北のほうが高値で取引されている。ある時のこと、みんなでアンコウを食べていると九州の先輩と茨城の先輩が口論になって「自分の所の方がうまい」と譲らなかったが、調べてみるとやはり、茨城県沖で獲れる常陸モノのアンコウが一番うまくて高値取引だそうです。
外見はグロテスクだが「食べられない所がない」と言われるように、身はもちろん皮や内臓、エラなど骨以外は全て食べることが出来る無駄の無い魚である。また料理として使われるのはメスのアンコウです。旬は肝が肥大する11月から3月ぐらいまでで、この間はいわゆるアンキモの上物が取れるので珍重されます。アンコウは刺し身、空揚げ、酢味噌など、いろいろな調理方法で食べることができるが、やはりメーンは鍋です。通が好むのが「どぶ汁」です。鍋で肝をつぶし、そこに生のアンコウと野菜だけを入れて煮る。ダシは一切使わず、アンコウと野菜の水分だけを頼りにする。かなり濃厚な味だそうです。江戸時代末期に北茨城市平潟の漁師が船上で食べたのが発祥といわれています。どの調理法でも最後に御飯と玉子、出汁を加え、おじやにして食べることが多いです。
身にはコラーゲン、タウリン、ビタミンAとEなどを多く含みます。家族や友人達と冬に一度はアンコウ鍋をトライしてみて下さい。

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— posted by 越智邦明 at 04:19 pm  

2011/2/14

愛媛マラソンを振り返って


第49回愛媛マラソンが2月6日(日)行われた。市民マラソンに生まれ変わって2回目の今回は、募集開始から8日間で5574人がエントリーした。ものすごい人気である。全国的にもマラソンブームである。さて今回は当院からも男性看護師、中西純平君(23才)が出場した。1月に南海テレビで彼を取り上げてくれたこともあり、病院の従業員はもちろん、患者さん達も熱烈な応援をしてくれた。
当日は朝から私もTVにくぎ付けであったが、優勝した城武雅さんは私の愛光高校の後輩であった。TV中に何回も「愛光→東大卒」と繰り返し連呼されたが、愛光OBとしては大変嬉しかった。さて肝心の中西君。直前に腰を痛めて、私をはじめリハビリのスタッフも集中治療を行ったが大変心配した。初マラソンであり、仕事の合間のわずかな時間で練習の毎日。さぞかし不安で一杯だったろうと想像する。しかし5時間3分で完走してくれて、堀之内のゴールに集まった職員や患者さんから一斉に歓声が起こった。記念写真を撮ったが、その場に西条の御両親も更におばあちゃんも駆けつけ、私と初めての御対面。本当は家族の方々は「来ない」と言っていたそうだが、やはり親である。お母様も「ゴールまでは本当にはらはらどきどきでした」と安堵の表情。1月の南海テレビの中で話していた「ある障害を持たれた患者さんとの約束」を、完走という形で果たせて、私も心から嬉しく思いました。
来年も挑戦するそうです。頑張って下さい。
(追伸)
写真、両脇に居るのが御両親です。

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— posted by 越智邦明 at 05:14 pm  

2011/2/10

節分


2月3日は「節分の日」であった。節分とは各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことであるが、特に立春が1年の初めと考えられることから次第に「節分」と言えば春の節分を指すものとなりました。立春を新年と考えれば節分は大晦日にあたり、前年の邪気を祓うという意味をこめて平安時代頃から追儺(ついな)の行事が行われていた。その一つが「豆まき」です。追儺とは悪鬼を追い払う行事のことで、陰陽師たちにより宮中において、大晦日に盛大に行われその後、庶民に広まったとあります。1447年には書物に「鬼外福内」と記されています。
豆は「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることで邪気を追い払い1年の無病息災を願うというわけです。
小さい頃から自分の数え年の数だけ食べると体が丈夫になり風邪をひかないと教えられてきました。
さて、ゆうちゃんの家でも盛大に節分行事が行われたようです。ゆうちゃんは2つか3つ食べればいいのに、いっぱい食べたのか胸につかえたようです。問題の「鬼」にどう反応するかがみんなの関心事でしたが、予想通り(?)大泣きしたようです。どこのお家も、泣き声が絶えなかったようです。
鬼はやっぱり恐い!?

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— posted by 越智邦明 at 12:40 pm  

2011/2/7

おはこ


宴会やカラオケで「○○のおはこ(十八番)」という言い方をする。
さてこの「おはこ(十八番)」という言い方の語源を調べてみた。すると江戸時代の歌舞伎役者、市川団十郎の選定した演目に由来していわれた、というのが有力な説である。話題の市川家は江戸歌舞伎において代表とされて、特に重んじられた役者であり庶民に人気があった。七代目の市川団十郎(1791~1859年)が、初代団十郎(1660~1704年)から代々市川家で演じられてきた荒事の演目の中から、得意なものとして選定した18の歌舞伎演目を「歌舞伎18番」としたことに始まる。私でも知っているのは「勧進帳」である。
この演目の台本を市川家が箱に入れて大切に保管したことから、当時高価な茶器や書画を箱に収め、真作であるという箱書きを添えた慣習から「おはこ」と言いならわし、転じて「その者が最も得意とする芸またはもの」として一般的に言われるようになったそうです。
さて私のおはこは、郷ひろみの「お嫁サンバ」です。郷ひろみは誕生日が10月18日。ゆうちゃんと一緒です。将来、ゆうちゃんの結婚式に「お嫁サンバ」を歌ってやれたら・・・と今から練習の毎日です。
みなさんの「おはこ」は何ですか?

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— posted by 越智邦明 at 04:19 pm  

2011/2/3

負けないで


医療界に居ると、人間がいかにもろいものかを痛感する。病気を前にして、昨日までの自信家がすっかり影を潜める。これは古代から変わらない。そこで、人生の応援歌が脚光を浴びている。数々の歌の中で「負けないで」を取り上げてみたい。御存知の通り、ZARDの最大のヒット曲であるが、ZARDを語る時には当然、ボーカルであり作詞家でもある坂井泉水(さかい いずみ)を語らざるを得ない。
坂井は1989年(22才)、日本エアシステムのキャンペーンガール、1990年(23才)、日清カップヌードルレーシングチーム(2輪)のレースクイーンであり、当時は雑誌グラビアなどに多く登場していた。1991年(24才)に歌手としてデビュー。
「揺れる想い」等、数々のヒット曲を飛ばしたが、やはり「負けないで」は本当にすばらしい。
さて順調にヒット曲を飛ばしたZARDに運命の転機が訪れる。2006年(39才)、坂井に子宮頸癌が発見される。大学病院で摘出術を受けたが2007年、肺への転移が発見され、抗癌剤治療を受けるはめとなった。ファンはみんなやきもきしていた運命の日、2007年5月26日、入院先の病院から転落して急死。40才。あっけない幕切れにファンはみんな悲しんだ。韓国や台湾など海外メディアでもこのニュースは一斉に報道された。そして、この年の12月31日、NHK紅白歌合戦にて「企画ZARDメモリアル」があり、「揺れる想い」「グロリアス マインド」「負けないで」の三曲が流れたが、これを見た方は大勢居られると思う。
さて、坂井死後3年以上が経ったが、彼女の死をめぐってはさまざまな報道がなされた。しかし私は、こんなことを考える。昨年、私の属する愛媛保険医協会は、松山市議会に「子宮頸癌ワクチン公費助成請願」を提出し、それが可決された。そして2月15日より松山市の若者希望者全員(中1~高1)に公費でワクチンが実施される。これは全国的な流れとなっている。もし坂井があと10年後に生まれていて、ワクチンを受けていて、子宮頸癌になってなかったらと考えていくと、とても残念である。
さて「負けないで」が発売された平成5年は、バブル崩壊による「失われた10年」が始まった年。不況に苦しむ人々の心に、元気を与えてくれる曲として支持された。発売から18年経った今でも、人生の応援歌として歌い継がれている。平成6年春の選抜高校野球の入場行進曲になり、高校の音楽教科書にも載った。この歌はなぜ人々の心を捉えるのか?それは「負けないで」の言葉にある。人は辛い時に「頑張って」と言われると、プレッシャーを感じる。しかし「負けないで」の言葉は、祈りにも似た優しさがある。就活も受験も辛いのは本人で周りは見守るしかない。「どんなに離れていても 心は そばにいるわ」は、まるで母親のような優しさがあり、ここに癒されるのだと思う。日テレの24時間テレビ「愛は地球を救う」のチャリティマラソンで、出場者のゴール直前にこの歌をみんなで大合唱するのが定番となっているが、納得である。
社会を取り巻く環境は厳しいですが、どうか「頑張って」ではなく「負けないで」と励まして下さい。そして落ち込んだときに是非、この曲のCDを聴いてみて下さい。きっと元気が出ます。

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— posted by 越智邦明 at 04:27 pm  

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