さて本題に入ろう。愛光寮の誕生は昭和31年である。その時の寮母さんが佐代子さんであり、今回の主人公である。佐代子さんは12期生までの生徒の面倒を本当の母親のようにみた。当初は独身でスタートしたが、昭和33年に寺尾忠道さんと結婚し、寮監・寮母がそろったのである。しかし悲しいことに昭和39年、36才という若さで肺性心で亡くなられてしまった。先輩の話を総合すると、次のようである。
東京オリンピックで寮内が沸いていた間も、県病院に入院していた佐代子さんの症状は日増しに深刻になっていった。しかし連日のように寮生をひとりふたりずつ、寮監さんの車で枕元に呼び、勉強などへの励ましの言葉を掛けてくれたと言う。彼女は敬虔なクリスチャンであったのだ。彼女の死を知った愛光寮OB、現役生は感謝の気持ちを表すため報恩碑建立を行った。その碑には「一粒の麦、落ちたり」とある。さて忠道寮監は寮母不在のままでは何かと不便で、まして思春期の難しい年頃の少年の身の回りの世話は、男では無理であった。そのことを佐代子さんも病床で心配され、女子商の後輩で愛媛相互銀行に勤めていた英子さんを後添いにするよう、寺尾家の人達に言い残された。英子さんもクリスチャンで、女子商の寮でお世話になった佐代子さんを姉のように慕っていた。
佐代子さんは英子さんの人柄と能力を深く信頼し「この人なら」と後事を託したようです。寮監さんもその意を酌んで、昭和40年6月に英子さんと再婚。寮は英子寮母さんのもとで再スタートを切ったのである。つまり私にとっては母親は英子さんであった。
愛光寮は昭和50年に幕を閉じるまで、計240名の会員を生んだ。もう増えることのない限定会員であるだけに結束も固い。
今年、寮創設満55周年を記に、佐代子さんの報恩碑を愛光学園校内へ移設すると共に、報恩銘板の新設事業が4月24日(日)愛光学園で行われた。除幕式には中村校長やベルモンテ神父も立ち会われ、最後は全員で校歌を斉唱した。私の知らない佐代子寮母さんであるが、その碑の前で歌う校歌に私は胸が熱くなった。
その後、舞台をいよてつ会館に移し、愛光寮会総会が行われた。14期の同期生4人で45年前にタイムスリップした。
Y君は松山市内の交番勤め、D君は長崎の保健所長をやめてフリーに、O君は鍼灸師を目指して勉強中との事。
愛光寮の灯よいつまでも!
(写真、左が佐代子さん。右が英子さん)