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2012/10/15

アンパンマン


大人も子供も口ずさむ「アンパンマンマーチ」。ゆうちゃんも散歩の時に私が曲の口笛を吹くと一緒に元気よく歌い出します。「アンパンマン」は子供達がテレビに釘づけになるヒーローの1人で息が長いです。
さて今回はこんな名曲を世に送り出した原作者、やなせたかし氏(93才)にスポットライトを当ててみました。父が1924年アモイで死去したあと、母、弟(千尋)と共に高知市に暮らすようになる。弟は一足先に父の兄(開業医)に引き取られたがその後、母が再婚したため弟と同じく伯父に引き取られて育てられた。弟は跡取りとして迎えられていたが、後から来たたかしは書生部屋に住まわせられ、待遇に違いがあった。1941年に徴兵され日中戦争に出征。中国人向けのプロパガンダ宣伝ビラの制作を担当した。銃を撃つことはなかったが、従軍中に食糧不足による空腹を体験したことや、弟の戦死などから反戦感情を持つことになる。弟、千尋は海軍の特攻隊である人間魚雷「回天」に乗船し、フィリピン沖で絶命したのです。
終戦後は高知新聞記者となり、後に夫人となる小松暢と出会う。1947年に三越宣伝部のグラフィックデザイナーになり、包装紙「華ひらく」に書かれた「mitsukoshi」のレタリングを手掛けた。1953年、三越を辞めて34才で専業漫画家となった。しかしなかなか芽が出ず作詞家としての仕事の方が多く、いずみたく作曲の「手のひらを太陽に」を作った。1966年「愛する歌」で詩人としてデビュー。以後、大人向けの詩集や絵本を次々に刊行して1973年、子供向け絵本「あんぱんまん」を出した。
1996年、出身地である高知県香美市に、やなせたかし記念館「アンパンマンミュージアム」が開館された。
1993年に暢夫人が逝去して現在は独身である。暢夫人との間に子供はなく、アンパンマンを2人の子供であるとしている。朝食はパン食に徹しているようで、何となくアンパンマンの発想がうかがえる。
さて90才を超え、妻も亡くしたやなせ氏は引退を考えていましたが、そこに起こったのが東日本大震災。発生から3日後、ある地元ラジオ番組にアンパンマンマーチのリクエストがあり放送した所、避難場所では子供達がラジオに合わせて大合唱。大人達も涙を流して感動したといいます。それからラジオ局は連日、このマーチを流し続けました。ヒーローであるアンパンマンは困っている人や悲しんでいる人に自分の顔であるアンパンをちぎって食べさせ元気になってもらうという設定になっています。そこには、やなせ氏のさっき書いた戦争体験、特に弟の死などが心の大きな柱となっています。やなせ氏は「人生の意味」について質問された時に答えた次の言葉に私も感動しました。「人生最大の喜びは何か?それはつまる所、人を喜ばせることだと思った。人生は喜ばせごっこだと気付いたとき、とても気が楽になった」と。引退をせずに、ますますの長生きを祈っています。

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— posted by 越智邦明 at 06:15 pm  

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