農家に生まれ、当時の人がみんなそうであったように、東京に丁稚奉公に出され、今のセイコー社に勤めていた。晩年、その当時の年金記録から、お金をもらえたのを喜んでいた。戦争にも駆り出され、終戦は広島で迎えた。いつも口癖は、「あと1日早く広島市を汽車が通過していたら、ピカドンにやられて、おまえ達は生まれていなかったんだぞ」であった。仕事は製菓業を営み、中国からたくさんの豆類を仕入れ、それを煎って売っていた。家内工業でいつも忙しく、私は家族旅行なるものの経験はなかった。狩猟を愛し、夏はアユ、冬はイノシシ、キジと忙しかった。獲ったものを、みんなで食べるのを至上の喜びと考えていた父のまわりには、いつも大勢の仲間がやって来た。保養所の管理を任されていた父は、土~日に私の友人がやってきてワイワイするのをとても楽しみにしていて、数ヵ月も行かないと不満を漏らした。
さて仕事は盛業だったにも拘らず(私の兄が歯医者を開業すると聞いて)すぱっと辞め、店も壊して歯科医院となった。壊されるシーンを私は今でも覚えているが、父は特に涙する風もなかった。
晩年はまだら痴呆となり、寝たきりとなっていくつかの病院のお世話になった。下の写真は南高井病院での、くつろぎの一コマである。そしていよいよ具合が悪くなった時、生まれ育った今治に帰りたいとの意思を尊重し、実家の近くの病院へ移った。
そして運命の1月11日、昼ごはんを食べたあと、スーとなくなった。大往生だったと考えている。
生前、私の家内のことを「真弓は幸せな星の下に生まれとるよ。一生苦労せんよ。あの子は」と語った言葉が耳から離れない。
親父、冥福を祈っているよ。