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2010/6/17

102才の別れ


患者のSさん(女性)が、6月11日に逝った。102才であった。
Sさんとは平成9年にお会いして以来、14年のお付き合いであった。102才と言っても二本足でしっかり歩かれ、TVも見るし風呂も1人で入れた。娘さんと同居していて、3年前までは関西の温泉にもよく行っていた。しかし、さすがに病院への通院はしんどそうだったので、3年前からは私が訪問診療を行っていた。高血圧以外さしたる病気もなく、はたして何才まで生きるのか、と楽しみにしていた。往診に行くと、いつもざぶとんに座って私の血圧測定を待ってくれていた。そんなSさんが今年の4月に肺炎を起こした。直ちに私の病院へ一週間の入院となった。そして退院後も私の往診は続いていたのだが、不明熱が出るようになった。吐き気も催すようになったので病院でもう1度胸部レントゲンを撮ると、胸水がわずかに見られた。いやがる本人を説得して公立病院で肺のCTを含め精査をお願いして入院してもらった。1週間後、主治医より、「非常に難しい場所に肺癌があり、しかも副腎転移を起こしている。もう手の処しようがない」と連絡があった。その時点で食が進まないので、中心静脈栄養(IVH)を受けていた。私はとに角、お見舞いに行って本人と話をしてみようと考えた。Sさんは私を見て誰だか最初分からなかった。娘さんが「いつも白衣の先生を見ているので分からないのですよ」と言った後、「越智先生が来てくれたよ」と説明するとやっと分って、笑顔がこぼれた。「Sさん、頑張って長生きしてね」と手を握るとSさんは「いや先生、今度ばかりはダメな気がする。本当に。」と力なく答えた。本人に病名の告知はしてなかったが、虫の知らせであろうか。翌日、娘さんが私の所にやって来て、「どうしても退院したいと本人が訴えます。自分の家で死にたいと言います。先生助けてください」と。
この時点でSさんの性格もよく分っている私は了承した。直ちに在宅酸素の手配を指示し、6月4日から連日の往診が始まった。この日の午後1時、親戚が集まり、私と今後の打ち合わせをした。その場で娘さんから、金庫に母から預っている生前遺書がありますと封印をされた封筒を出された。私がみんなの前で開封し読みあげた。一つ、「延命治療はしないこと」一つ「苦痛を与えないこと」の二点が書かれてあり、最後に「医者の責任は問わない」とあった。日付けは平成9年であった。私と知り合った時に既にSさんは、この日の来ることを予知して、遺書をしたためていたのだ。訴訟社会の今、「医者の責任は問わない」の一言は、私を勇気づけるものとなった。IVHの管理にナースのMさんを充て、朝、夕の点滴管理が始まった。6月7日夕方、娘さんより「息が出来ないと苦しんでいます。すぐ来て下さい」と連絡があり、直ちに駆けつけた。苦痛にゆがんだ顔を見て直ちに鎮静剤を投与した。10分後には楽な呼吸となった。6月8日の夜9時も同じような発作で呼ばれ、同じ処置を行った。在宅では出来る処置は限られるが、精一杯の苦痛を与えない治療を続けた。そして運命の6月11日午後3時45分、静かに息を引きとった。約束通りの治療が出来て、私も娘さんも満足であった。
6月13日、私は葬儀に参列した。娘さんが弔辞の中で、母は日本舞踊を愛していたこと、そして楽天的な性格であり、好きな言葉は「明日がある」だったことを話された。涙ながらに、母から教えられた「明日がある」を糧に元気に生きて行きたいと結ばれた。
色々な事を教えられた、Sさんとの長い付き合いであった。自分がどんな終末期を迎えるのかー神のみぞ知ることだが、深く考えたいと思う。

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— posted by 越智邦明 at 12:48 pm  

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