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2013/6/24

藤堂高虎(戦国遊泳術)


藤堂高虎は私の郷里今治で、今治城を造ったということで私の頭の中に小学校よりしみ込んでいた。今回、高虎の一生を勉強する機会があり紹介してみたい。これがまた時の武将に仕え次々と出世するのだから面白い。高虎は六尺二寸(190cm)という巨躯であったと言う。
 
(第1)
高虎は近江の浅井家に仕え、浅井長政のもと、姉川の戦い(1570年)に初陣し知行3百石を得た。
 
(第2)
浅井氏が織田信長に滅ぼされると天正四年(1576年)からは秀吉の弟、羽柴秀長に仕え三千石を得た。
 
(第3)
織田信長の後継をめぐる豊臣秀吉と柴田勝家の争い(賤ヶ岳の戦い.1583年)で戦功を挙げ、秀吉から二千石を加増された。
 
(第4)
その後、紀州征伐や九州征伐で活躍し、秀吉から評価され一万石が加増され合わせて二万石となった。
 
(第5)
秀長の死後、豊臣秀保に仕え、文禄の役に出征したが、その出征中に秀保が早世した。
 
(第6)
秀保の死で高虎は落ち込み、出家し高野山に上り隠逓し経文を唱える生活となった。
 
(第7)
秀吉から再三の申し出により高野山を降りた。(還俗)。この時(1594年)伊予宇和島で七万石の大名として遇した。
 
(第8)
第2次朝鮮出兵、慶長の役では水軍を率いて出動し加増され八万石となった。
 
(第9)
秀吉の死後、今度は家康に仕えることとなった。慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いで先手番となり勝利を得て、家康から今治、二十二万三千石に加増された。のち、津城主となった。
 
(第10)
慶長14年(1609年)、高虎は国を治めるには諸大名の妻子を江戸へ召し集めることが乱を未然に防ぐ方法であると進言し、自らの妻子を江戸に差し出した。後に諸大名も妻子を差し出すようになった。
 
(第11)
慶長19年(1614年)大坂冬の陣、夏の陣で大活躍し、家康、秀忠から五万石を加増され三十二万三千九百五十石の大大名に上りつめた。
 
(第12)
大坂の陣で討死した者を供養するため京都・南禅寺の三門(ブログ2013年2月12日号)Link を建立した。
 
さて以上高虎は名のある主君に次々と仕えたが、そのたびに加増されている。それは武辺に優れているだけでなく、築城術という特技を持っていたからだと言われている。
築城は一七城に及んでいる。主君は浅井長政から家光まで十一名の主君に仕えている。
高虎の次の言葉が面白い。「武士たるもの、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と。主君を遊泳したものの一旦仕えると、誠心誠意勤めたとある。
サラリーマンの諸氏も見習う所は多いと思われました。

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— posted by 越智邦明 at 05:08 pm  

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